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M「唐松・新勝寺・京のミヤコ」M

  • 2010/07/25(日) 23:50:18

唐松真南ライン.jpg

このブログのレギュラーであらせられる「唐松神社」
ここから真南にラインを下ろしてみました。
まさに真南にあったのは「成田山新勝寺」でした。
唐松真南ライン拡大.jpg
まるで大本堂を目指してるようなラインです。
唐松神社→新勝寺の方位角「180°00′04.89″」(180.00136…度) 
400km以上離れている2つが驚くほど正確に南北に並んでます。
※これまで唐松神社は現在の天日宮ではなく、
約400m離れた唐松岳山頂の奥宮にポイントしてきました。
延宝8年(1680)まで、ここに神社本体があったそうですが、
藩主の命令で(むりやり?)現在地に移動させられたそうなので、
鎮座地として選択されたのは山頂の方だと思えたからです※


現在の天日宮の真南にも成田山公園があり、
新勝寺のHPを見ると、ここも境内の一部みたいなので、
新旧の唐松神社とも成田山と南北関係にあるようです。
成田山境内.jpg

新勝寺は最初(940年)からあそこにあったと思ってましたが、
何度か移動した可能性もあるらしいです。
さらっと調べましたが、説が色々あって混乱します。
下総国公津ケ原から
千葉県並木町の不動塚へ移動(1566年頃)
現在地には(1705年) あるいは天文年間(1532~55年)か、それ以前に移転??
でも公式HPを読むとずっと移動してないようにも取れます。
新勝寺移動の歴史はハッキリしませんが、
ここに移ってきてからの履歴は判ってるようです。
現在の「光明堂」が1701~安政年間1858年?
「釈迦堂」が1858~1964年に本堂として使われた建物ですが、
調べてみるとふたつとも移設してるようなので、
現在、本堂がある位置が、
江戸時代からずっと新勝寺の中心になるポイントだったと考えられます。
だとすれば物部系神社の 隠れた“要”の真南に、
わざわざ新勝寺が引っ越してきた事になります。
これまで正確な南北関係は「北=王者」「南=チャレンジャー」と考えてきました。
また徳川のバックに物部がいたような推察もしてました。
もし江戸時代に現在地に移動したなら、
幕府がそんな移動を許したのはちょっとおかしな話になります。
(この推察が正しいって前提ですが、笑) 



もうひとつ二等辺魔方陣のようなものも。
新勝寺唐松京二等辺三角形.jpg
新勝寺を頂角にして唐松神社と京都方面が、
二等辺三角形になるようです。
ひとつ大きな問題は、
新勝寺の「不動明王」は京からの使者ですが、
「物部系神社」と「京のミヤコ」のバランスを取るのに、
ふさわしい存在なのか疑問です。
今回はこの上なく正確な南北に並んでることを重要視して
祭神・本尊とかの問題はちょっと置いといて、
いろいろ調べてみます。

唐松同距離京.jpg
誤差ゼロの二等辺になるのが赤いアイコンたちです。
北野天満宮なんかも近いですが、
境内の内側にアイコンが来るのは「西本願寺」です。
西本願寺拡大.jpg

家康の作戦で東西の本願寺に分かれたと言われていますが、
上記のWikiによれば西本願寺も家康の寄進によって現在地にやってきたそうです。
ちょっと面白いのが、ここにある「唐門」も“日暮門”と呼ばれてるらしいです。
こう呼ばれる門は珍しくないみたいですが、
やはり徳川の日光東照宮を連想してしまいます。

徳川といえば二条城もアイコンを意識してるような位置にあります。
大内裏二条城拡大.jpg
さっき書いたように「徳川のバックに物部あり?」と推察してきたので、
京のミヤコでの徳川の陣地が物部氏と釣り合ってるのも、
なかなか面白いような。
さらに最初に京都の中心が置かれたのがこのあたりで、
二条城も最初の大内裏と一部重なっています。
南北朝のゴタゴタで1331年頃、現在の京都御所に引っ越したそうです。
おそらく京都の寺社はそれ以前に建立してるものがほとんどで、
京の寺社が魔方陣的に守ってる御所(内裏)は最初の方って可能性は高いと思います。
赤いアイコンは最初の大内裏を横切るようにポイントされてます。
すでに江戸時代には存在しなかったとしても、
“魔方陣の”大内裏と物部氏が釣り合うってことがあるのかも。
大内裏二条城超拡大.jpg



京都と新勝寺と言えば、以前の魔方陣「将門ヘキサゴン」で出てきました。
神田明神を中心に六方向へラインを伸ばした魔方陣です。
今回のライン
「新勝寺」から「大極殿」「現 紫宸殿」「二条城」「西本願寺」ラインと、
将門ヘキサゴンの赤いラインを重ねてみると、
新勝寺神田明神拡大京.jpg
一番近いのは二条城ラインで100mぐらいのズレです。
京都に来るとこんな感じです。
新勝寺神田明神拡大京拡大.jpg

ライン全体が見えるくらい俯瞰すれば「新勝寺-京ライン」に神田明神が乗ってるみたいです。
新勝寺神田明神京俯瞰.jpg
①神田明神の赤いラインは深大寺や大宮八幡宮もかすめるので、
そっちの二寺社が本命で、延長線にシンボリックに京のミヤコがある。
②赤ラインは方位角のラインなので角度的に見ると
「大極殿」「現 紫宸殿」「二条城」も許容範囲と言える。
①と②、どっちがあってるのか(どっちとも間違ってるのか、笑)

神田明神より今回のラインに近い位置にあったのが、
「東京スカイツリー」です。
上下の藤色ラインは最初の大内裏北端・南端ライン
水色ラインは京都御苑北端・南端ラインです。
新勝寺スカイツリー拡大京.jpg
現在は存在しない大極殿のラインが、
タワーに一番近いのがなんか変な感じです。
目には見えないですが、やはり“魔方陣的には”存在してるんでしょうか?
大内裏ラインや京都御苑ラインにすっぽり包まれてスカイツリーが建っています。
タワーに付属してる建物もまるでラインの向きに合わせてるみたいです。
新勝寺とスカイツリーの延長線を京都まで伸ばすと、
軌跡は最初の大内裏、京都御苑を突っ切ります。
新勝寺→スカイツリー→京都の中心って
直線のラインも成り立ちそうです。
新勝寺スカイツリー俯瞰京俯瞰.jpg
だとすればスカイツリーが作動することによって、
京のミヤコと成田山新勝寺がさらに結びつく可能性がある?
しかし徳川の二条城もかなりスカイツリーラインに近くて、
二等辺の誤差ゼロの赤いアイコンも二条城に引っかかってる状態なので、
徳川の遺構 二条城でも成り立つことにもなります。

新勝寺が京都サイドのポイントって前提で、
色々書いてきましたが、
以前の魔方陣「くにたまほんがんじランド」では、
ホントは物部系と言われる香取神宮→新勝寺→ランドマークタワーという
かなり正確なラインがありました。
ランドマークタワーは三菱系列のビルですが、
このブログ内では三菱も物部と関係ある?って推察もしています。
(なんでもかんでも物部と結び付けてるみたいですが、そんな事は無いんです…)
以前からなんとなく感じてたんですが、
新勝寺が征伐しようとしてた東夷の中には、
東国に逃れた物部系列の人は入ってなかったんでしょうか?
そんな敵対してたはずのポイントを、
長い時間をかけて自分たちのカラーに塗り変えていく。
なんて事が一種の長期計画として行われてたりして…?
そんなありえない妄想も個人のブログなんで好き勝手に書き殴れます(笑)

なんだか話がまとまらなくなりましたが、
簡単にいえば、
唐松神社と新勝寺は超正確に南北に並んでで、
唐松神社と京都の西本願寺・二条城・最初の大内裏が、
新勝寺を頂角にした二等辺魔方陣を作れるかも?って推察です。
南北ラインの方は意図的に思えますが、
“意味”が今ひとつ読み取れませんでした。
江戸開幕しちゃって、征夷大将軍の徳川政権ができましたが、
征夷大将軍と言っても名ばかりで、別に東夷征伐はしてませんでした。
とてもおかしな発想ですが、
征夷大将軍がいる場所は東夷がいっぱいいるはずです。
(豊臣の「関白」と対称かもしれません)
そんな徳川将軍家が作った江戸って場所(縄張り)は、
京よりも東夷サイドに傾いたミヤコと考える事も可能なんじゃないかと…
「とうとう東夷の(近所に)ミヤコが出来ちゃいました」
と強引に仮定すれば、
東夷成敗って大義名分が消えてしまったうえに、
江戸の目と鼻の先にあった新勝寺は、
知らず知らずのうちに徳川(物部)に取り込まれてたとか…?
やっぱりありえないですよね。

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